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カラヴァッジョの崇高な貧困

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闇に光が灯っている感じが昔から好きだ。

例えば暗い部屋でロウソク。焚き火やキャンプファイアー。中心に置かれた炎が顔を照らす。それが落ち着く。

 

いずれ書きたい人物ばかりなのだけれど、例えばレンブラントやジョルジュ・ド・ラトゥール、アンリ・ファンタン・ラトゥール。果てはゲルハルトリヒターからミヒャエル・ボレマンスまで。そういう静かな感じが落ち着く。

 

わたくしという現象は仮定された有機交流電燈の青い照明です

 

と、宮沢賢治は春と修羅の中で語る。明滅する照明を私という現象に例えた賢治のこの言葉は、小難しい哲学の存在証明よりもすっと胸に染み入る。私が存在する、のではなく、私が現象する。なんとも不明確で揺れてるような。

 

先日カラヴァッジョ展を上野の国立西洋美術館に見に行った時にも、その感覚が呼び起こされた。

 カラヴァッジョのフォロワーだった後年の画家、いわゆるカラヴァッジェスキの絵もあるのだが、カラヴァッジョが圧倒的。さすがオリジン。

 

静物画の果物の葡萄とかそのままもぎ取って食べれそうなくらい、質感たっぷりに、美味しそうな瑞々しさを描出。静謐なのに野生的で、光と闇の濃淡がつよいのに、人肌や静物柔らかい。一方で本人は顔も濃く、殺人で逃亡したり、暴力的で破天荒な人だったとか。

 

バッカスやナルキッソス、果物籠を持つ少年ももちろんその精緻な写実的徹底ぶりに驚きを禁じえないのだが、圧巻は法悦のマグダラのマリアだ。世界初公開というこのマグダラのマリアは、この展覧会のどの作品よりも静謐であり、美しかった。

法悦とは、エクスタシーや喜びを意味する。身体を椅子にもたれ掛けて法悦の境地に達するマグダラのマリア。恍惚というのはこの事を言うのだな、という絵。マグダラのマリアは娼婦だったが後にイエスに従って改心(悔悛)する。

 

ミシェル・フーコーという20世紀フランスの思想家は、「恥辱の生」ないし「汚辱に塗れた生」に関する文章を書いている。そこでは歴史的に排除された者たちを文学的なコーティングをすることで美化したり英雄に仕立て上げて甦らせるのではなく、恥辱の生そのものが権力や装置と衝突するものとして捉え直してみる、そんな内容だった。

 

あるいはジョルジョ・アガンベンという現代イタリアの思想家は、アッシジの聖フランシスコを題材に、「崇高な貧困」「いと高き貧困」を語る。

 

マグダラのマリアの絵画は数え切れないほどあるけれど、たいていは聖人でもあるし美化されて描かれている気がする。でもカラヴァッジョのマグダラは、いわゆる美化とは異なる「陶酔」が宿っている。理路に沿えばそれはカラヴァッジョ自身こそが「汚辱に塗れた生」を全うしていたからかもしれない。

 

崇高と貧困の反転。それが作用する地点においてカラヴァッジョのマグダラのマリアは闇の中で恍惚という灯火に包まれる。罪や傷痕が完全に癒えるのではなく、その痕跡や記憶を抱えながら法悦する。

 

消えないであろう悲しみを抱えて悦ぶ姿が、美しく崇高ですらあった。