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get ready

ファッション/アウトドア/音楽/ミニマリズムなど

山も海も都会も全て等価なものとして渡り歩きたい

四年前にクラシックな服装に目覚め、いわゆるスーツスタイルを好み始めたと同時に登山も本格的に始めた。理想は公私の服装を相対化することにある。するとスーツで登山するのが究極的理想となる。が、それでは効率が悪い。

幸い今はテアトラやノースフェイスパープルレーベル、アークテリクスヴェイランスなどスーチングとアウトドアのハイテクを掛け合わせたワードローブを提供してくるのがひとつのトレンドとなってる感はある。が、シワシワでくってりしたりテロっとした質感のそれらを仕事には着ていけない。
やはりスーツはスーツでなくてはならず、スーツの形をしたハイテク素材とは実に中途半端なシロモノなのだ。しかし公私の相対化とはこの中途半端=中庸を認め、止揚することに他ならない。するとノースフェイスの中でクラシックかつ日常的なアイテムを探すという、骨を折る作業に腐心せねばならない。
ミニマリストはゴアテックスとスーツを持たないだろうか?   あるいはゴアテックス素材のスーツによって止揚するだろうか。あるいはナナミカのゴアテックスステンカラーコートをスーツの上に羽織るだろうか。
ミニマリストの登山版であるウルトラライトハイカーたちはヒエラルキーの頂点に軽さを置いているゆえ、モスコットのサングラスは書けないし、オックスフォードシャツは着ないだろう。玄人感と引き換えに道具を持たない勇気。かっこいいけど、日常重視の私には難しい。
一方でよく言われるように「男がもっともセクシーでかっこいい服装はスーツである」とすれば、やはり「スーツで登山」が至高といえる。とはいえスーツを着こなすことはまだ難しい。日常的にスーツを着ること。ジャケットを着まくってスラックスを穿き潰して様々なスーツに挑戦することで経験値があがり、やがて《スーツに着られる》感覚はなくなるだろう。そうすると日常=スーツが自然にしみついてくる。日常=スーツ、休日=普段着、アウトドア=アウトドア着、というふうにTPO的な場合分けをするのは間違いようがないが、結局精神的な部分で自分が準拠している環境とは異なるものを享受しなくてはならない。その心構えはいかにして可能だろうか? 補助線としてここでぱっと思いついたダニの研究から見出したユクスキュルというひとの「環世界」という概念と小説家・平野啓一郎が見出した「分人」という概念を補助線に考えてみたい。
 
 ユクスキュルの「環世界」はかつてジョルジョ・アガンベンというイタリアの哲学者が『開かれ』という本の中で引用したり、國分功一郎が『暇と退屈の倫理学』のなかで重要なキーワードとして論文に敷いていたのが印象深い。「環世界」とはいってしまえば「同じ世界を認識していると思っていても種が異なればまったく違った世界が現れる」とでもいえばよいだろうか。人間が見る<世界>とダニが見る<世界>は異なるし、ダニが見る<世界>とミジンコが見る<世界>も違うだろう。環境世界。それを敷衍させれば、私が見ている世界と他者が見ている世界は異なっている、という当然の結論に収束する。ユクスキュルの例をここで紹介したい。
 
「アメーバの周辺に浮遊する、すべてわれわれの眼にのみ映じる、糸状繊動組織、繊毛虫類、輪形動物類、グレガリナ類、そして腐食分解物といった多彩な対象は、アメーバ自身の見地からは問題とはならない。かれら自身にとっては弱いか、あるいは強い刺激、それのみが存在するからである。それらには機械的なものも、化学的なものも、あるいは光によって惹起されるものもあるわけだが、それらすべてはその刺激の強度によってたがいに弁別されるのみである。それに加えて食物固有の刺激が存在し、それは外質を粘性に富む、柔らかなものへと変質させる」。

「客船の舷側から青黒くきらめく海原を眺めやる。そこにはもはや鳴りやんだ鐘のようなクラゲがびっしりと群れ合って、まるで魔法の園に咲き誇る無数の花ででもあるかのようにゆっくりと泳いでいく。それを見るわたしたちは、我知らずある種のねたみに似た感情に襲われる。この色彩の饗宴のなかを泳ぎ来たり、泳ぎ去る。自由に、何にも煩わされることなく。とよめく海神のゆらぎのままにゆらめきつつ、輝く日輪の下、きらめきわたる月光とともに漂っていく。これは素晴らしい生き方にちがいない。しかしクラゲはこうした素晴らしさを何ひとつ感じることはない。われわれ人間を取り巻いている世界は、かれらクラゲには無縁である。かれらクラゲの内的生活を満たす唯一の事象は、規則的な興奮の波動、ただそれだけである。それは自らの動きにつれて生み出され、かれらの神経系において同じ律動で生成し、消滅するのである」。
 
なるほどアメーバやクラゲはわれわれのいう<素晴らしさ>を持つことはないだろう。ここで私が言いたかったことは、山には山の世界があるということだ。それは都会の日常を過ごす私とは遠くかけ離れた世界であり、あるいはそれを山の「掟=ルール」と言い換えることも可能かもしれない。厳格な山容を誇る峻険な山岳地帯に生息する幾多の生命の世界があり、それは人間的な100年単位ではなく、何千、何万年単位という引き伸ばされ連綿とした時間の豊穣としての円を描き、都会を閉ざす。そこに分け入っていく人間の世界=社会。宮崎駿的主題。それらを厳密に語ることはここでは憚れるが、少なくともわれわれとは違った<世界>が山や海や自然にはある。われわれはその世界を越境する。境界を跨ぎ歩くなかで自身が未明の環境に適応できるかどうかは、とても重要な課題。
一方で平野啓一郎はその小説の中で「分人」という概念を研ぎ澄ましてきた。分人は個人と対置される。私はひとりの個人ではあるが、親との自分、友人との自分、恋人との自分、職場での自分…といったように人間関係で自分は可変するものであり、そのどれもが真実の自分だとするアイデアだ。アイデンティティとはひとつの強固なものでなく、可塑的なものだと平野啓一郎は捉え返す。分人は人間関係だけではなく自然とわたしたちの関係にも言える。分人概念を敷衍させて考えると、服装も重要な要素だろう。職場での自分の服装と友達と会うときの服装と登山の服装と海の服装は違うんだ、でもそれは等価だ、という考えは分人概念に近い。でも服装は人格とは異なりすべての空間に於いて限りなく同じものに近づけることは可能だ。
冒頭の問いに戻ると、スーツで登山という極端な発想は馬鹿げてはいるが、海も山も川も都会も、すべて自身への現れとして等価なものとして意味付けることによって、それぞれの行動様式にも変化が訪れるのではないか?  ということだ。それは変化なき変化ーどの場所でも同じ精神状態の自分でいられる、ということと同義だろう。