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ファッション/アウトドア/音楽/ミニマリズムなど

『ソラニン』と「大人」になること

BOOK/CRITIQUE

我々は髪を切り、毎朝髭を剃った。我々はもう詩人でも革命家でもロックンローラーでもないのだ。
村上春樹『ニューヨーク炭鉱の悲劇』ー

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…久しぶりにソラニンのことを思い出したので覚書。

まだソラニンを見ていない方にはネタバレになります。しかもうろ覚えのネタバレです。

ソラニンの主人公、種田はデザイン事務所のバイトをするバンドマンで、音楽で一生食べていくような決意をする。

種田は幾千もの大学生が思うように20代前半特有の「俺は何だってできる感」や「無限の可能性」のようなものに賭ける。

しかし現実はそううまくいかない。凡百のバンドマンがいたとしても成功するのはほんの一握りの者なのであり、種田は苦悩し、最終的に赤信号をバイクで突っ切って自死を選択する。

なぜ種田は死んだのか? 

私は種田が「大人」になりきれなかったからだと思う。

当時学生の身分で見ていた私はとても感銘を受けたのを覚えているが、多かれ少なかれ社会的なものに触れる機会が増えるにつれ、次第に種田の無能さというか甘さに腹が立つようになった。自立すらままならない状況で彼女がおり、結婚しようとは。

彼を全て受け入れてくれる聖母のような彼女がいる。もうそれは種田を全肯定・全承認してくれる理想の女性であり映画では宮崎あおいが演じている芽衣子だ。これで死ぬ意味がわからない。無責任すぎる。

 ソラニンのストーリーのクライマックスは、種田亡き彼女が、種田のギターを持って種田が作った歌を唄う、というお涙頂戴ものである。

その歌は浅野いにおが作詞しアジカンが作曲しており、無論、当時の私は宮崎あおいが懸命に歌う姿に泣いてしまったのだが…汗

その歌詞のブリッジーサビの部分はこうだ。

 

あの時こうしていれば

あの日に戻れれば

あの頃の僕にはもう戻れないよ

例えばゆるい幸せがだらっと続いたとする

きっと悪い種が芽を出してもう さよならなんだ

 

ヒリヒリするくらいの、やりきれなさ。大学という温床から社会という未明の闘争へ。ぬるま湯に浸かっている自分への忸怩たる思いや、自分が自分であることへの疑い=実存的な問い。昔であれば全共闘や連合赤軍など「大きな物語」へ向かい自己の存在証明や承認欲求を満たしていたであろう学生は、音楽へ、アイドルへ、映画へ、様々な「小さな物語」を準拠点を見出し、アイデンティティを生成せねばならない。種田のような夢見がちなニルヴァーナが好きなバンドサークルに入っている連中は星の数ほどいるだろう。だが気づかねばならない。気づく時が来ねばならない。

 

俺はカート・コバーンではない

俺はトム・ヨークではない

髪を伸ばしてもジム・モリソンにはなれない

 

と。

所詮自分は社会に出て普通の生活をする凡人であり、普通の人と何ら変わりがないのだ、と。だからこそ普通や中庸を享受するのだ、と。この転回が訪れることが「大人」になることのひとつの要素なのかもしれない。

そしてこの思考の転回が種田は出来なかったのではないだろうか。ベンチャーで働いていてもバンドやりてー!と。それはそれでいいのだが、その二つを両立することは不可能に近いだろう。

 

ただし。

夢見る少年のようなピュアな気持ちがなければ優れたバンドマンにはなれない説もあるだろう。社会的なものに根ざしていないから書けるものもあるだろう。だからこそバンプオブチキンが丁寧に描出する失われた子供時代への憧憬、心象スケッチはわれわれを少年時代に戻らせてくれる揺り籠のような音楽だ。アーティストは子供であれ。ビジネスやプロデュースはマネージャーの役目だ、という考え方がある。

しかし様々な鬩ぎ合いの中で人が成長するとしたら、いつまでも子供でいられない。

窪塚洋介が自分をコトナだといっていた。子供と大人のあいだだと。

 論点が散逸し始めているが、大人になることとは、ボンヤリした夢を諦めることを示すのかもしれない。(朝井リョウは『何者』でそれを生々しく克明に描き出している)

凡庸で普通であることの自覚。それが日常生活におけるスタイルの素地であるという事実を、村上春樹の主人公は私に教えてくれた。

 

しかし。

村上春樹の小説にも常にいるのだ…自分をすべて理解し承認してくれる女性が…種田と村上春樹はそこは変わらないのだ。果たしてこれが「大人」なのかは議論の余地があるのだけれど。