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「君の名は。」と「シンゴジラ」の通奏低音

<標記2作品の内容が本ブログには含まれます>

もはや批評的な言説はこの2作に厚く硬い外殻を作ってしまっており、書くべきこともない、ないしは書いたとしても凡庸になってしまうのだが、それでもなお書いてみたい。少なくともいえることは2作品とも紛れもなく日本映画史にその名を刻むであろう傑作だという点だ。

私が私である存在理由。それは私が私自身を述べたところで完遂せず、必ず失敗に終わる。自己の存在証明は、必ず他者を媒介にして生成される。他者の他者としての再帰的自己。この他者は具体的な身体を伴う他者のみを意味しない。ここで私が言う他者とは、他者性を帯びたもの、つまり「自分が認識したり理解したりすることが出来ない異質なもの」として定位される。それはたとえば津波であり、原子力であり、放射能であり、ゴジラであり、数多の災厄である。

 

救済なき破局

「シンゴジラは①エヴァンゲリオンと②初代ゴジラと③3.11以降の震災ドキュメンタリーのマッシュアップである」と『ユリイカ』で池田純一は述べており、溜飲が下がる思いだった。行政や国家の意思決定の脆弱さ。とても安易な「投射」であるが、ゴジラの出現や去来自体が「原子力発電所」の炉心溶融=メルトダウンの破局とまさに符合してしまう。海外で不評なのも、あの災厄を身体をもって体験した都市部に住まう一般人以外には理解できない部分が多いからかもしれない。脆く崩れ去る車や橋やビル、その集積としての瓦礫の映像に東日本大震災を重ね合わせることは容易であり、そのイメージの重ね合わせ易さ=ベタさこそシンゴジラの特徴であった。キーワードのひとつである「ヤシオリ作戦」もエヴァの「ヤシマ作戦」のパロディであると、エヴァを見ている方なら誰もが感じただろう。とにかくさまざまな要素のミックスアップ=マッシュアップ=パッチワークの要素でシンゴジラが生成されている。私の中では「圧倒的破局」にどう立ち向かうか、が現実的に描かれていた。シンゴジラでは圧倒的破局=ゴジラの出現を塗り替えることはできない。そこで描かれているのはバッドエンドでもハッピーエンドでもない、希望も絶望もない日本そのものの空虚感と疲労感だった。

 

世界の書き換え

一方で新海誠は「君の名は。」においてこれまた多様な要素を織り込んだ傑作を生みだした。1200年前の出来事。3年前の出来事。現在。タイムスリップしたり男女入れ替わりものは数あれど、「君の名は。」はそれを精緻で流麗に描き切った。新海が案出したテーマは「結び」だった。ネタバレしない程度に書くことはなかなか困難だが、共時的、通時的枠組みを越境して人と人が繋留し、そこで破局が塗り替えられうる。タイムリープと呼ばれるSFジャンルでは現実は改変可能なのであり、依然破局があったとされる出来事そのものの破局が忘却される。忘却に抗うことは出来ないのだが、「かつてーそれはーあった」的な「何か」は解消しきれぬ残余となる。そして主人公の瀧、三葉は「いつか会ったことのあるあなた」の存在を追い求める。この秀逸な映画の題名が全てを物語っているのである。破局が塗り替えうることは、アニメだから可能なのだ。シンゴジラもSFなのであり浮世離れといえばそうだが、確実にリアリティの描出を志向していた。現実路線ではない、破局を塗り替えることはけしからん、と「君の名は。」を非難する声もあるらしい。が、これはアニメなのだ。新海誠は絶望を希望に変え得る2人の関係性に希望を見出していたのではないか。それに新海監督が「ほしのこえ」により「セカイ系」を生み出した事実を想起されたい。

記憶の忘却、忘却の記憶

以上、凡庸な感想に留まってしまったが、2作品は破局のあり方に対する2つのベクトルを提示している。それぞれ現実派=シンゴジラ、理想派=君の名は。というベクトルである。〈しかしながらシンゴジラの中でも日本政府の「こうあってほしい」という庵野監督の理想=願いが最終的に投影されてはいるのだが、些末な点は目を伏せたい〉

最終的に2者に流れる通奏低音は何か。それは記憶=忘却である。そしてトラウマ的記憶との対峙である。

決して忘れたくない、でも忘れたいという矛盾を抱えた出来事は多かれ少なかれ私たちの日常生活を支配する。大切人の喪失と、災害的な破局。このミクロとマクロは乗り越え難い記憶の困難への対処であり、トラウマ的記憶は一方では克服せず、一方では世界の書き換えにより克服される。現在の日本をどう生きるか。あるいは現実をどう解釈すればよいのか。2作品はその問題への2つの回答である気がする。