4年前に、このブログで服と効率について書いていました。
服と効率について2018 - get ready(洋服と山道具)
4年前のことですが、要旨は「どこでも恥ずかしくない服装のみを選んでいきたい」と記しています。
哲学者鷲田清一氏の名著にもありますが、「恥ずかしくない」とは、他者の目線を前提としています。
あれから4年を経て、そこまで服の嗜好は変わっていませんが、バンドTシャツを着る機会も少なくなり、スタンスミスからニューバランス(履き心地)にシフトするといった微妙な変化はあります。
自分にとって服とは、昔は奇抜なものを着たりデザイン性のあるものを選んでいましたが、それはおそらく「他者のまなざし」を前提にしたものだったと言えるでしょう。いまは、出来る限り他者から注目を浴びない、目立たない服を着ているような気もします。その証左として、私のご紹介している服も殆どが「地味」と捉えられるものです。
「他者のまなざし」から逃れることはできません。かつて社会学者の見田宗介が名著『まなざしの地獄』において鮮烈に描いたように、高度経済成長期は「他者のまなざしこそが地獄」でしたが、現代は「まなざしの無さこそが地獄」であり、インスタやTikTokなどのSNSでは日々他者のまなざしを求める投稿で溢れています。この私のブログ自体もそれに属しています。
「他人の目線なんてどうだっていい」
と言い放つそのとき、その人は誰よりも他人の目線を気にしており、その否定=背理によって自己の存在を証明しようとします。
まず前提とすべきは、「私たちは他人の目線から逃れられない」事実であり、その中でどのように自分をアピールする/しないかというゲームに否が応でも参入しなくてはならないということです。
私が私である、と言うためには、必ず他者の存在を前提としなければなりません。そこから社会そのものが立ち上がっていきます。
とすると、服装自体も、それがまなざしと分ちがたく結びつく限りにおいて、他者とのコミュニケーションにおいて成り立つものに他なりません。
家の中でスーツを着る人は居ませんし、
会社で寝巻きを着る人は居ません。
服は他人の目線、その目線が構築する〈社会〉と不可避にぶつかり合っています。
田舎の田んぼ道で着るサンローランと、
表参道や青山で着るサンローランもまた空間によって服の意味が変わる一例でしょう。空間も〈他者〉的なものといえるかもしれませんし、かつてデュシャンが便器を「泉」と称して美術品としての概念を付与したように、「場」によって服の意味も転倒していくかもしれません。
思うにファッション、殊更パリコレのようなモードとは、つねに空間や他者のまなざしとの「違和」による衝突を楽しむものです。
ギャルソンの黒の衝撃はまさにデュシャンのように「ファッションの規律」に背くような「衝突事故」だったでしょう。
では私はなぜ服を着ているのか。それは自分を落ち着かせるためだと思います。近年気に入ってる服たちも、数は多くありませんが、自然と淘汰されて残ったもので、素材やシルエットに無理がなく、必要以上に自分を大きくみせない、慎ましさがある服です。その服たちは、私にとっても他者の目線にとっても、刺激の弱いもので、街や自然に溶け込んでいくようなものだと感じています。
よく断捨離で「着ていて、ときめく服を残しましょう」と言われますが、私は「ときめき」は一過性のものだと思います。私の好きな服は地味だし、キラキラしていませんが、モノ作りとしての確かなクオリティとデザイナーの自信を感じさせます。それはコモリのシャツ一枚を羽織っただけでも感じることができるでしょう。
そのような服を着ると私は安心し、落ち着きます。着ていくうちに身体に馴染んでいきます。そこにはもう、過度に着飾ってモテたいとか、オシャレになりたいとかいう欲とは違った感情、「良い服を着たい」という感情が立ち上がってきます。
ひとはなぜ服を着るのか。服を着ない人間はこの世界にもほとんどおらず、生まれてから死ぬまで私たちは否が応でも服を着ざるをえず、他人の目に晒されなくてはなりません。
「春になればあのシャツが着れるな」
「冬になればあのコートが着れるな」
と思うだけでも楽しみがある生活を、今後も続けていきたいと思うし、その楽しみを少しでもこのブログで紹介できれば幸いです。