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ファッション/アウトドア/音楽/ミニマリズムなど

ロラン・バルトのほうへ

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石川美子著『ロラン・バルト 言語を愛し恐れつづけた批評家』(中公新書,2015)を読んだ。バルトはモード論、写真論などを読んだり大学院の仏文ゼミ(社会学なのにモグリで参加)でちょっと読んだくらいで、体系的に知る機会がなかったので、手に取ってみた。

結論を言うと、理想的な入門書だということ。

バルト生誕100周年ということで出版されたであろう本書は、第一に、体系的に概念を理解しようという説明的な文章ではなく、バルトの生い立ちをライフストーリー的に追うことで彼の思想形成を描いている。主要概念を主要著書を媒介に解説するような本とは違い、読み物として面白い。特にバルトの母親への愛情、故郷と都会の往還、音楽(ピアノ)への愛、文学や俳句の嗜好、日本文化への愛、中国旅行での辟易...など、人間的な部分が垣間見えて面白い。より立体的に生き生きとロランバルトという人物の像が浮かび上がってくる。

第二に、仏現代思想系の解説本にありがちな過度なレトリックや専門用語を廃して、とても平易で読者に寄り添うような文体で描かれている。バルトの有名な本に『零度のエクリチュール』というものがある。「エクリチュール」とは簡単に言えば「文体」のようなもので、作家みずからが選びとるスタイル=形式で、衣服のようなもの。「零度」とは「中性的なもの」「白い」「無垢な」ものを指している。まさに著者である石川さんはこのスタイルを踏まえて本書を書いており、紹介文にありがちなエゴやでしゃばりを廃し、バルトの思想を過不足なく「零度」で伝達している。

バルトは何よりも言葉=エクリチュールを愛し、それに賭けていた。そして同時に言葉は権力に結びつくことを敏感に察知していた。有名なコレージュ・ド・フランスの講義でバルトはこう語る。

 言語は、たんにファシスト的なのです。というのはファシズムとは、何か言うのを妨げるのではなく、何かを言うことを強いるからです。(...)言語においては、二つのことが必ず現れます。断言による権力と、反復による集団性です。

バルトは主体を忌避していたという。「私は●●です」と言った途端、「私」は規定されしまう。だからこそバルトは「私」という主語=主体が現れない「俳句」が好きだったのだろう。あるいは「私」が固定化されずに変化していくプルーストの小説。そして幼年期の幸せな記憶をずっと抱えながら彼は生きる。同性愛者でもあった彼は終始プルーストに傾倒し、小説を書きたいと思う。でも自分は嘘つきじゃないから書けない。バルトはとても上品で、誠実で、素直で、断定を避ける繊細な人だったんだと思う。実際彼のエクリチュール=文体は彼の人生と呼応して変化し続けている。とくに母親の死は彼の人生の中でも最大の受難だった。それでも「言葉にしがみつくように」紡いだ「断章」と呼ばれる日記形式のような文章の断片をカードに書き続けた。書かずにはいられなかった。

一方で予想通り「概念」を拒んでいる。ニーチェを引用しながらバルトは「概念」を「同一でないものの同一視」から生まれるもので、多様性や変化を縮小してしまう力として捉え直す。「概念」ではないものとしてバルトが対置したのが「隠喩」だった。愛とは何か、死とは何かを定義するのではなく、その形を隠喩として描きだすこと。

本書の帯には「華麗なる批評家の軌跡」と書いてある。私もロランバルトはオシャレでスマートでカッコいいイメージを持っていた。

ところが彼のライフストーリーを追っていくと、低所得の苦しい家庭の中で、肺結核を患いながらも友達に恵まれてアカデミックな空間に身を置くことができたとか、博士論文は書けずに終わったとか、大学教員資格試験も逃したとか...交通事故から入院した挙句院内感染によって死を迎えるまで、決して「華麗」なエリートコース街道とはほど遠い人生だった。それだけに、フーコーの推薦などで死の4年前にフランスの最高教育機関であるコレージュ・ド・フランスの教授になったという最後のきらめきは感慨深かった。37歳で批評家デビュー。煩悶し自分を見失いそうになりながら、それでも言語=エクリチュールに賭けるバルトは言葉によって慰められ、救いを感じとっていたのだろう

確実に今後バルトの読み方が変わるだろう手助けをしてくれる、魅力的な一冊だった。

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アンリ・カルティエ=ブレッソンが撮った往年のロラン・バルト