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杉本博司『SEASCAPE(海景)』を買う

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〈どんなことでもそうだけれど、結局いちばん役に立つのは、自分の体を動かし、自分のお金を払って覚えたことね。本から得たできあいの知識じゃなくて〉村上春樹『スプートニクの恋人』

 

杉本博司の本が欲しいと思っていたら、兄といとこと茶をしばいたのが代官山ツタヤの中だったので、例のごとく写真集コーナーに行った。代官山Tサイトは深夜までやってるし、茶も飲めるし、とにかく落ち着いて本と向き合えるヤバい空間で、コレだよコレ!とか言いながら見てたら、気づいたら1時間以上経っていた。
杉本博司の本が欲しいと思っていたので、店員さんに聞くと、写真集ではなく現代芸術コーナーに一冊だけあった。「Seascape=海景」という名のその作品集は、文字通り水平線が写真の真ん中で分かたれている、海と空以外何もない写真集だ。ページを繰る必要もなく購入。自宅に帰ってきたのは深夜。大きな本を机に置いて、こっそりと開封。表紙ページを繰る…ドキドキする。なんと、序文は私淑している社会学者の見田宗介!やはり文体の密度が濃いので、あとで読むために飛ばす。1ページ目。写っている海をじーっと見つめる。遥か彼方、無限の水平線までモノクロームの海と空がただそこにある。

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読んでいる夜の時間と海の時間が次第に溶け合ってしまうくらい、写真に引き込まれていく現象は『はてしない物語』のバスチアンの気分。
そんな時思い出したのが、上記の『スプートニクの恋人』に登場するミュウという女性の台詞だった。高い買い物かもしれないが、引き込まれてしまったらどうしようもない。ドゥルーズも思考の始まりは自己への不法進入とも言い得る衝撃だと言っていた。もう見つけてしまったからにはどうしようもない。『はてしない物語』を見て、それを手放すことなんてできなかったバスチアンと、またも一緒だ。
杉本博司の徹底的に要素をそぎ落とし静止した海そのものを提示する作品を眺めていると、逆説的にさまざまな断片的イメージが頭の中から溢れ出す。たとえば以下のようなことだった。
地球の始原、海はただそこにあった。人間が、生命が誕生する遥か以前の時空。『2001年宇宙の旅』の猿たちも同じ海を見ていた。写真とは本来時間を静止して切り取るが、杉本の作品は逆説的に過去、現在、未来の時間がその瞬間に混在する。つまり時間が近代的な「不可逆的な時間」の意味から解放される。あるいは「創世記」のような、原始の混沌としての海。言葉による意味の分節化がなされる手前の海。近代化が生み出した記号や消費の〈意味の海〉が無意味と無為へと帰す地平。あるいは恐怖の根源…暴力性の内在=津波。ユゴーの「海に働く人々」やメルヴィルの『白鯨』、ヘミングウェイの『老人と海』など…海がもはや砂漠として知覚してしまうかのように変化する海面の様相。そこから生起する「空白なる充溢」と、「充溢なる空白」の転回。
『Seascape』に載っているさまざまな時代に世界各国で撮った海は、固有なのに匿名的だ。各写真は水平線をすべて統一しているため、時間や空間までも薙ぎ払われ捨象されてしまう。ぐるぐると動き回る経済や社会や資本のなかでサバイブしている自分をリセットするにはちょうど良い作品集だし、これからも長くずっと見ていく作品だと思う。そしてぜひ生の写真で見てみたい。おそらくプリントの質感や写真のサイズで、より衝撃的な体験ができそう。イヴクラインやマークロスコのように記号的な意味消費を無に帰すようなミニマルアートではない。そこには海がある。ただそれだけ。「意味を過剰に持たないこと自体が鑑賞者の想像力を触発させる」という体験を経て、あらためてスーザンソンタグの「反解釈」的なものを再考することができた。