<若干のネタバレを含みます>
いま私が獲得している生活をすべてなげうって、どこか遠くへ行きたいという逃避行。モンパルナスのロトンドでゆっくりクロワッサンとスクランブルエッグとオレンジジュースを飲みながらLe mondeを読みたい。というささやかな夢が現在を支えていたり。いまの生活を投げ打ってどこかへ行ってしまいたいという欲望はいつも自分の中に存在する。宇多田ヒカルも「二時間だけのバカンス」で抑制された欲望と逃避行を描出していた。「今日は授業をサボって 二人きりで公園歩こう」
幾度も読み返す『羊をめぐる冒険』『ダンスダンスダンス』。あちらとこちらを繋留する役割を果たす女の子。日本文化的に言う遊女的な、自分を異世界へ案内してくれるような存在に惹かれる。
黒沢清『岸辺の旅』を観た。最後に黒沢作品を見たのは大学時代の『トウキョウソナタ』だっただろうか。そのころ青山真治作品もよく見ていたので被ってしまう。高校の頃は『アカルイミライ』の冷たくてしどろもどろな空気感に狼狽していた。
深津絵里が好きだ。女優の中ではいちばん。
『岸辺の旅』は深津絵里がとにかく魅力的に映っている。深津絵里の演技や細やかで繊細な表情が今までの深津出演作品と比べて群を抜いていた。妻夫木聡と共演した『悪人』も良かった。深津絵里は踊る大捜査線や三谷作品のイメージがあるが、一番ナチュラルな深津がこの『岸辺の旅』に映っていると感じる。
3年前に死んだ夫(浅野忠信)が、ピアノ教師しながら夫を喪った悲しみのなかで生きている深津絵里の前に現れる。そして2人は夫が死んでから3年間過ごしていた場所を尋ね歩く旅に出る。喪われた夫。妻の知らない夫。死んだはずの夫への複雑な心情を丁寧でゆっくりとしたカメラワークが描き出す。
深津と浅野が感情を通わせ爆発させる場面はない。何度か深津の目から涙が零れ落ちる。それがあまりにも脆くて儚い。あくまで抑制され、禁欲されたイメージがふたりの内面を探り当てて観客に提示する。BGMがやや不釣り合いであり内容もあるようでないようなものだ。ラブストーリーでもなければハートウォーミング感もない。生者と死者があらかさまに提示されているわけでもなく、そこに教訓めいたメッセージも感じられない。結局死者は現実界から去っていき、深津はまた元の生活に戻るのだろう。そこに悲嘆や希望も描かれぬまま幕は閉じる。
何気ない映画。淀み、悩み、苦しむような姿もない世界に生きること。それでも死者が異界へいざない、現在とは別の世界のなかで生き直すなかで、夫へのさまざまな感情を再び取り戻すこと。深津絵里の表情がそのすべてを語っていた。