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宇多田ヒカルの喪失と再生

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離別や死別の経験は愛すべき対象の喪失と言い換えができる。

フロイトがかつて人間の行為を欲動ーリビドーを準拠として思考した際に、リビドーを備給することが困難になった者は喪に服する作業が必要だと言っていた。

うろ覚えだが喪に服するとは一定の期間悲しみに沈み込み、煩悶し、懊悩し、苦悶することを意味する。喪に服すること。喪を拒絶すること、死別から距離を置くことは出来ないと。

フロイトにすれば彼に「そんなに悲しまないで早く立ち直って」「これから頑張れ」などという言葉を投げ掛けてしまうこと自体がどれだけ凄惨な行為かわかる。

 

宇多田ヒカルも離別や死別を体験したが、その都度孤独な、狭い部屋のような、誰もそこに入ることが出来ない時空のなかで喪の作業をしてきたといえる。

ある種の情動が行き場を失い、フラストレーションになって自らを苦しめてしまう。それをぎゅっと濃縮して自分の苦汁を絞り出すように宇多田ヒカルは数多の傑作を世に送り出してきた。

先日発表された8年ぶりのアルバム『fatome』(oにアクサンが付く)は、フランス語で幽霊や幻影、追憶を意味する。フランス人の写真家が撮影した洗練された写真がこのタイトルを物語っている。ゲルハルト・リヒターのようなブレとモノクローム。このアートワークが3年前に自死で他界した実母・藤圭子を彷彿させるという声も聴かれた。

宇多田はその後懐胎し、母となる。本人がインタビューで語っている。人生で最も大きなイベントとなりうる出来事がこの3年で2度も起こった、と。もうこのようなアルバムは一生作ることは出来ないと思う、と。

おそらくこの2つの出来事、つまり愛情を注ぐべき対象の喪失と、その復活だ。

宇多田ヒカルに訪れた、おそらくもっとも重要な死と生が『fantome』には色濃く影を落としている。

余計な斟酌は拒むべきではあるが。。

リードトラックである『花束を君に』は亡き母への追憶と慈愛が切ないくらい溢れているけれど、一見そのような解釈はその事実を知らないとわからないようになっているし、宇多田ヒカルは基本的に一義的な意味の断定は拒む様に曲をつくっていると思われる。肯定と否定のあいだをつねに歌詞はたゆたって、対象を限定しない。

しばしば音楽とアーティストの私情を切り離して考えるか否か問題があげられるが、私は確実にアーティストの私情は制作に反映されざるを得ないと思っていて、そこを切り離して語ることはとても難しいことだと思う。

特に今回の宇多田ヒカルのおそらく2010年代の最重要作品のひとつになるであろう『fantome』には母の死と子の誕生のみならず、孤高のアーティストとして他者とのコラボレーションをしてこなかった制約を解放して多彩なアーティストとコラボしている部分を見るだけでも、彼女の今までの作品との違いがわかる。

先日のインタビューで宇多田は「子どもが出来てまったく自分ひとりの時間がなくなった」と語っている。自分ひとりでいること、母を失うこと、母であること、その喪失と愛情と慈愛をもって漸く音楽の世界に戻ってきた宇多田ヒカルに、僕は万来の拍手を送りたい。当然だが、捨て曲など存在しない。

凡百のアーティストが作る凡庸なポップソングが決して到達できない地点に、宇多田ヒカルのポップソングは到達してしまったと感じる。

一曲目の『道』を聞けば、それがわかると思う。曇天のなかに兆す陽光のように「道」が開きだすのだから。

 

宇多田ヒカルが日本に居てくれてよかった、と。そして全て日本語の曲名。宇多田不在で椎名林檎が頑張っていた音楽シーンをまた活性化し、引っ張っていてほしい。

 

 

見えない傷が私の魂彩る

 

転んでも起き上がる

迷ったら立ち止まる

そして問う あなたなら

こんな時どうする?

 

私の心の中にあなたがいる

いつ如何なる時も

一人で歩いた道のつもりでも

始まりはあなただった

Its' a lonely load

But I'm not alone

そんな気分

 

 

ー宇多田ヒカル『道』